- 更新日時:2023/04/06 (木) 11:00
- 講演会
- 講師
- 伊藤 真波(いとう まなみ)氏
(日本初の義手の看護師、北京・ロンドンパラリンピック競泳日本代表) - プロフィール
- 1984年静岡県生まれ。5歳から水泳を始める。
2003年静岡県医師会看護専門学校入学後、交通事故に遭い、右腕を切断。
大切な人たちからの励ましや、義手の制作、自身の努力によって、2007年神戸百年記念病院に入職し、日本初の片腕の看護師となる。
またパラリンピックの競泳日本代表選手として、北京パラリンピック100m平泳ぎで4位に入賞。2010年アジアパラリンピック100メートル平泳ぎでは2位、2012年ロンドンパラリンピック100メートル平泳ぎで8位に入賞。
そして義手を使い、バイオリンの演奏も行っている。
現在は、神戸百年記念病院を退職し、育児をしながら講演活動をしている。 - 開催日時
- 令和4年11月26日(土)
- 開催場所
- 富山県民会館 ホール
- 演題
- 「あきらめない心」
①看護師になりたい
私が看護師を目指したのは、「看護師になってお母さんを助けよう」という思いから。勉強は苦手で、小学校の6年間、ランドセルの中身を空っぽにして学校に行っていた。飽きっぽい性格だったが、習い事として水泳とバイオリンに出会ったのはこの頃。中学校では会社員から教員に転身し、30歳で赴任してきた村松先生と出会った。村松先生は真面目な性格から生徒から馬鹿にされたり暴力を振るわれたりしたが、真剣に生徒たちと向き合ってくれた。私にも先生の熱意が伝わり、「こんな大人になりたい」と勉強を頑張り、看護科のある高校へ進学することができた。
②バイクの事故で右腕を失う
父の影響で乗り始めたバイク。どんなときも応援してくれた母が、バイクに乗ることだけにはずっと反対だった。母とのわだかまりは解けないまま、大きなトラックとの交通事故に遭い、右腕だけでなく顔にも大けがを負った。なんとか利き腕である右腕を残したい思いで治療に挑むが、想像を絶する辛い治療、受け入れがたい現実に、両親へ八つ当たりをしてしまう。それでも逃げずに付き添ってくれた母。母はどんなことがあっても涙を流さず笑顔で接してくれた。トラックのタイヤに巻き込まれ、引きずられてしまった右腕の状態は良くならず、遂には切断する決断をする。成人式を二か月後に控える中、右腕を失った。
③再び看護師をめざして
看護学校へ復学をし、夢の実現に向け再び進み出した。復学のためには義手製作が必要だった。そのために入院した病院で出会ったのは、自分の障害をさらけ出すことのできる人達だった。私は右腕が無いことを言い訳にしていたが、これからは何かにぶつかっても自分の力で這い上がれる強い人になりたい、負けない自分になりたい、と思い始めた。仲間のサポートもあって国家試験に無事合格した。
第二の人生、片腕の看護師として恩返しがしたい思いで神戸の病院に勤務。初めて私の姿を見た患者さんは驚いた。だから、まず処置をすることよりも患者さんとの信頼関係を築くことを心掛けた。
④この手に教えてもらったこと
「スポーツの力を借りて強い人になりたい」思いから、看護師を続けながら障害者水泳を本格的に始めた。地域の方々に助けてもらい、日本代表になることができた。
私の結婚はうまくは進まなかった。障害をもったお嫁さんを自分の家族に受け入れるのはどれだけ覚悟が要ることか。しかし主人は諦めることなく、家族を説得してくれた。現在3姉妹の育児をしている。私はこの手にたくさんのことを教えてもらっている。人は障害があるとかないとか関係無く、他人には言えない心の傷を何かしら抱えて生きている。でも誰もそれを口にはしない。私にも皆さんにも、大事な人、守りたい人がいる、守ってくれる人がいる。それは当たり前かもしれない。でも、かけがえのない毎日を大切に送りたいと思う。