- 更新日時:2018/03/19 (月) 10:45
- 講演会
- 講師
- 宇津木 妙子 氏
(女子ソフトボール元日本代表監督
NPO法人ソフトボールドリーム理事長
東京国際女子大学ソフトボール部総監督) - 開催日時
- 平成29年11月25日(土)15:30~17:00
- 開催場所
- 富山県民会館 ホール
- 演題
- 「夢と人生」
①「見返してやろう」が原動力
少女の頃、授業参観に来た母親に学校の先生から「娘さん、もっと勉強してもらわないと。」と言われ、「あなたは恥ずかしい。」と母親から言われた。特待生として高校のソフトボール部に入部した。正義感が強く、先輩から目をつけられ、ロッカーが荒らされるなどのイジメにあった。
実業団チームのユニチカにエースのピッチャーと一緒に行くことになった。出発当日、駅で先生から「お前はエースの付録だからな。」と言われ、列車のトイレでずっと泣いていた。
母親、先輩、そしてその先生を見返してやろうと思い、実業団チームで努力し続けた。
②人を活かし、人を喜ばせることが課題
ユニチカでは、ソフトボールをしながら、最後に女子寮の寮母の仕事をした。ある寮生が塀を越えて逢引きに行くのを発見し、叱ったら、「私は家族から愛されていない。私なんかどうでもいいんだ。」と叫ぶ。その寮生に、人生で一度だけ平手打ちをした。するとその寮生は、「何でこんなにやさしいの。」と言った。みんな寂しいのだ。それに寄り添ってあげることが大事だと気づいた。
その後、日立のソフトボール部の監督の要請を受け、高校時代のイジメや、ユニチカでの寮母の話を選手の前でする。選手を活かすために何でもやるという決意であった。
③金メダルを目指して
全日本のソフトボールの監督の要請を受けた。シドニーオリンピックでは、決勝までは全勝で勝ち上がった。決勝では、最終回にレフトの選手のエラーもあり銀メダルとなったが、試合後にエラーをした選手を責めたことを今でも後悔している。アテネオリンピックでは銅メダルに終わり、責任をとって代表監督を辞任した。
北京オリンピックでは、代表監督ではなかったがエースの上野とアメリカに行き、シュートボールを習得させた。そのこともあり北京オリンピックでは上野は大活躍し、金メダルにつながった。
④最後に
何度もソフトボールをやめようと思ったけれど辞めなくてよかったと、本当に思っている。ロンドン、リオとソフトボールがオリンピックの正式種目から除外されていたが、東京では復活することができた。しかし、まだまだ世界的にソフトボールは普及していない。普及活動に力を入れていきたいと考え、NPO法人を立ち上げ、日本から世界に向けて普及活動に邁進している。
家庭教育ではあいさつを交わすことで、その人の調子が見えてくる。あいさつも含めて、親は子供と向き合うことが大事であると考えている。